【札幌市中央区】「現存する日本最古の時計台の歴史を紹介」
正式名称は「旧札幌農学校演武場」です。札幌農学校は北海道大学の前身で、開拓の指導者を育成するために1876 年開校しました。
この演武場はクラーク博士の提言により、農学校の生徒の兵式訓練や入学式・卒業式を行うために中央講堂として1878年に建築されました。
時計台の創設に影響を与えた合衆国農務長官ケプロン
明治維新後の1869年、明治政府は本格的に北海道の開拓と札幌の開発を進め始めました。
1871年、開拓次官の黒田清隆は開拓を進めるためにアメリカ合衆国を手本とすることとし、合衆国農務長官のホーレス・ケプロンに来日を要請しました。
1871年に来日したケプロンは北海道の開拓に関して様々な提言・指導を行いました。
新天地として本州から移住してくる開拓民をどのように極寒の北海道に定着させるか、衣食住と産業をどのように整備していくかアドバイスを行いました。
北海道はケプロンのアドバイスのもと、畑作・酪農・水産加工業・ビール醸造業・洋風建築の導入などが進められました。
ケプロンはまた、開拓の指導者を養成するために専門的な教育機関を設置することを強く勧めました。
このケプロンの提案に従い、開拓次官・黒田は札幌に高等教育機関を設置すること、西洋の技術・学問を取り入れるために、教師を雇い入れることを政府に求めました。
そして1875年、札幌学校が開校し、翌1876年にクラーク、土木技術者のホイーラーを教師として迎え、8月14日に札幌農学校が開校しました。
クラークによる演武場の構想
明治政府は「兵農一如」の考えをもとに北海道の各地に屯田兵村を設置し、北海道の開拓と軍事的防備を担わせました。
クラーク博士は母校のマサチューセッツ農科大学と同じように、札幌農学校にも兵式訓練という授業を導入しました。
この兵式訓練とは北海道において有事の際に農学校の生徒が屯田兵を指揮することを目的とした訓練で、開拓の指導者に必要な体力を養うことを目的としました。
演武場の設計
演武場の設計はクラーク博士の後二代目の教頭となったホイーラー先生が担当し、技術者・安達喜幸の設計によって1878年に完成しました。
一階は研究室、講義室、動植物の博物標本室として使用することを目的とし、二階は演武場として兵式訓練や体育の授業などに使われる中央講堂として設計されました。
演武場は農学校の生徒が新たな一歩を踏み出す場所であるとともに、4年間の学業を修了して社会へ巣立つ晴れの場になりました。
建設当初は時計塔がなかった
完成当初は時計塔がなく、屋根の上に授業の開始や終了を告げる小さな鐘楼が付いていました。
演武場の完成式に出席していた開拓次官・黒田が時計塔の設置を提言したと言われています。
そして1878年ホイーラー 教頭がアメリカ合衆国のハワード時計商会に塔に設置する時計を注文しました。
ところが1879年に到着した時計は大きすぎて時計塔に設置できないことがわかりました。
当時建築中の豊平館や他の建物に設置することも考えられましたが、最終的にホイーラー教頭の提言によって莫大な費用をかけ時計塔を作り直すことが決定しました。
そして1881年、時計塔の澄んだ鐘の音が札幌市民の耳に届くようになりました。
時計塔の移設
1888年、時計塔の鐘の音は札幌の標準時計として指定され、札幌市民に親しまれてきました。
そして1903年農学校が移転すると、演武場は札幌が借り受けることになりました。
(この頃から「時計台」と呼ばれるようになりました。)
1906年、札幌は時計台を農学校から買い上げ、100mほど南に移設しました。
この場所は農学校の寄宿舎があった場所でした。
現在は建築当初の本の場所に「演武場跡」の石碑が建てられています。
『#札幌市時計台』みんなの投稿
#札幌大好きだから札幌を貼る #札幌市時計台
本日は時計台の時計機械が動き始めて140年目と聞いて
時計台が平面だった頃(^^♪ pic.twitter.com/E4cY3FGzKc— 181やくも (@181yakumo) August 12, 2021
日本三大がっかり名所のひとつ札幌市時計台。「名所」って言うと、ちとハードルが高くなっちゃうのかNA?派手さはなく、札幌の地に溶け込んでいる感じ、と言えばいいのかNA?ぶっちゃけ、近くにあるテレビ塔の電光時計で時刻は見られるZE!#北海道 #札幌 #時計台 #札幌市時計台 #日本三大がっかり名所 pic.twitter.com/zW0Q6e1T8x
— たゆたうたゆたたゆたろう (@Tayutautatatata) August 8, 2021