【旭川市】「屯田兵ゆかりの神社」
旭川神社 (ASAHIKAWA JINJYA)
上川・宗谷・留萌エリア(旭川・稚内・留萌)
最終更新日:2023年6月29日
明治23年、旭川、神居、永山が、開村し、25年には、神楽村が開村しました。
明治24年~25年にかけて、永山・ 旭川・当麻へ屯田兵が入植しています。
その地域から、屯田兵が開墾していますから、そこから発展したことになります。
この東旭川から豊岡・東光にかけての地域は『旭川兵村』でした。
その他の区域(現在の旭川市街方面)は、もっと後に発展しており、当時は「忠別市街地」と呼ばれていました。
明治30年になり、忠別市街地の戸口増加(七師団の移駐関連)にともない、同年、ひそかに北海道庁を動かして、本来の旭川であった旭川兵村を永山村に編入し、これを「永山村字ウシシュベツ」と称し、残る地域の忠別市街地を「旭川」として独立させるのに同意させ、同年12月道庁告示により公表したのです。
この処置は、旭川兵村の住民に一言の交渉もなく行われたもので、これを知った屯田兵たちは納得がいくはずもなく猛烈な非難となって村民一丸となって反対運動が起こり、直ちに旭川兵村より井川伊八郎ら五名の屯田兵が北海道庁を訪れ、訴えることになりました。
それにより、非を認めた道庁ではありますが、すでに「旭川」と呼ばれている町を、変更することは不可能であり、打開の策として 明治31年、以下の通り道庁が上げた案で合意に達しました。